« 「転向」の季節に… | トップページ | 再び「転向」の季節に… »

2009年1月19日 (月)

「非転向」の人々…

「転向」の季節が訪れた…と書きました。

でも、もちろん「非転向」を貫く信念の人々もいるわけです。いつの時代にも…。

『資本主義はなぜ自壊したのか』で軽やかな「転向」を演じて見せた中谷巌氏のかつての盟友、「小泉構造改革」の立役者・竹中平蔵氏も「非転向」を貫く信念の人のようです。

昨日のサンデープロジェクトでの金子勝氏との対決も、「非転向」の闘士・竹中平蔵氏の面目躍如といったところでした。かつては自らが唱える新自由主義的・市場原理主義的「改革」にもっぱら賞賛をおくるばかりだった司会者やコメンテーターたちも、いまや――機敏にも「転向」をとげて――フィンランドの「国際競争力」の高さに手放しで憧憬の意を表するまでに至っています。いまのサンプロでは、まさに四面楚歌ともいうべき竹中氏でした。

しかし、信念の人・竹中平蔵氏はいささかも動じることなく、金子勝氏を論破していきます。堂々たるものだといっても良いでしょう。現在の経済危機は、「改革」が中途半端に終わったせいであり、小泉首相退陣後、守旧派による「改革」への逆行があったからにほかならないのだ…と。

たとえば…「派遣切り」「非正規切り」が起るのは、正規労働者を過剰に保護する現行労働法制をはじめ「労働市場」に対する「規制緩和」が不徹底だったからであり、また年功序列賃金の破壊が不徹底に終り、「同一労働・同一賃金」というフェアな「労働市場」が未形成だからにほかならない。正規労働者の「既得権益」を守る悪しき規制が、自由で公正で競争的な「労働市場」の展開を阻害してしていることこそが問題なのだ…と。

あるいは…もはや「負け組み」になりつつある日本経済の「再生」のためには、法人税の大幅な軽減と徹底的な「規制緩和」による外国資本の誘導以外に道はないのだ…と。

あいかわらず竹中氏の新自由主義的・市場原理主義的信念に揺らぎはないようです。すべては「市場」に委ねるべきである。「市場」に失敗はありえないのであり、何か「不都合な事実」があるとすれば、それは自由な「市場」を阻害する悪しき「規制」や「既得権益」のせいにほかならない。プラス面は「市場」と「改革」のおかげであり、マイナス面はすべて「改革」の不徹底と「抵抗勢力」のせいだというわけです。

こうしたある種の思考停止ともいうべき、そしてあたかも「宗教的信念」でもあるかのような、単純明快で紋切り型の議論が、「小泉構造改革」を支え、竹中平蔵という人物を時代の寵児としたのでした。こうした論理の前に、皆がまるで「魔法」にかかったかのように沈黙せざるを得なかったのでした。

しかしこうした「魔法」には、もはや誰も容易にはかからなくなってしまいました。「市場」という“神”が実は“モンスター”に過ぎないことが顕われてしまったからです。サブプライム問題、リーマン・ショック、「非正規切り」etc.という形で…。「潮目の変化」とはそういうことなのでしょう。

それでもなお「魔法の言葉」を唱えつづける「信念の人」の姿には、何か哀れさすら漂います。しかしこうした「魔力をなくした魔法使い」を、微かな失笑を浮かべながら眺めるかつての同調者たちの方にも、同様の、いやそれ以上の哀れの情を禁じざるを得ないのは、はたして僕だけだったのでしょうか?

いよいよ明後日には、「市場」の本家・アメリカで、「緑のニュー・ディール」を掲げた「市場」に対する大規模な「国家介入」の開始が宣言されます。

「非転向」の信念の人々は、それでも自由な「市場」を喧伝し、「規制」=「国家介入」の排除を叫びつづけることができるのでしょうか?それとも雪崩をうったように、「自然との共生」という日本の文化伝統に回帰していくのでしょうか?

|

« 「転向」の季節に… | トップページ | 再び「転向」の季節に… »

コメント

 信念のひと井伊大老 安政の大獄にて歴史の前進に負の寄与す。

投稿: てけ | 2009年1月24日 (土) 09時34分

市場原理主義でもなく、日本的伝統回帰でもなく、何か第三の道をお考えでしょうか。「ルールある資本主義」というのは、ちょっとあいまいな概念だと思いますが。

投稿: 大野正和 | 2009年4月 1日 (水) 23時19分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「非転向」の人々…:

« 「転向」の季節に… | トップページ | 再び「転向」の季節に… »